「楽園」レポート第2弾


「楽園」レポート第2弾は、「ハワイでの暮らし」と題して、当時のハワイで日系人がどのような生活をおくっていたのかをご紹介します!

楽園レポート第2弾「ハワイの日系人の暮らし」

<プランテーションビレッジ>

プランテーションビレッジでは、1900年代から1930年代後半までのプランテーション労働者の住居や生活用品などが再現されています。

サトウキビプランテーションの規模は、南北戦争によるアメリカ本土での砂糖の需要の拡大に伴って大きくなっていきました。(この時期、ハワイはまだ独立した王国で、アメリカ本土には併合されていませんでした。)
ところが、外国人がもたらした伝染病などで、ハワイ原住民の人口が急激に減少し、プランテーションの労働者が不足し始めました。そのため、安い労働力が必要となり、中国、ポルトガル、日本、韓国、ノルウェー、プエルトリコ、フィリピンからの移民が、労働者として導入されたのです。

☆プランテーション労働者の生活 ☆

労働者スタイル
こちらは日本人労働者のスタイル。
朝5時に起床の蒸気雷がなり、午後4時半まで働きました。夜8時に消灯の蒸気雷が鳴り、労働者の一日が終わります。

バンゴ―

労働者は、この写真のような「バンゴー」と呼ばれる金属の番号札を与えられ、身分証明に使っていました。お給料をもらう時には、名前で呼ばれず、その番号で呼ばれました。

Pidgin English
「Pidgin English」と呼ばれる、プランテーションで使われていた共通語がいくつかあります。さまざまな国の言語と英語をミックスしたような言葉で、日本語に似た発音をする言葉もありました。「バンゴー」もその一つです。
 

 

タロイモ畑

ハワイでよく食べられている「タロイモ」の畑です。

 

韓国人住居 

これは韓国人労働者の家。

 

中国人会議場
ここは中国の会議場。
この建物は当時からこの場所にあったそうです。

 

相撲場

ここは相撲場。 日本から持ち込まれた「相撲」をして遊んでいました。日本にあるものとは少し異なっています。

 

 

☆ 日系人の暮らし ☆

 日系人住居
こちらは日系人の住居。この家には2つの家族が住んでいたそうです。家に入るときにはやはり履物を脱いでいました。そのため、家はデッキ(縁側)より一段高くなっています。居間兼寝室や台所も一家に一つずつありました。
日本人の文化が浸透した結果、現在ハワイの家庭の9割は家に入るときに靴を脱いでいるそうです。

神棚部屋の奥には神棚がありました。

 

 
 

こちらはお風呂。勿論、日本人が持ち込んだ文化です。ハワイのように暑い環境でも、日本人にとってお風呂は欠かせなかったようです。後に、お風呂という文化はプランテーション全体に広がり、共同風呂に発展しました。日本人だけでなく様々な人種が入浴していたそうです。 お風呂
 

 こちらは寝室。ハワイでも寝る時には浴衣を着ていたそうです。

寝室
台所 当時、火の元は石油でした。そのため、お米に石油の匂いや味が付かないように、炊事場は外に設けられていました。
 
こちらは床屋。一世は、日本語以外は話すことが出来なかったため、言語を必要としない職に就いていました。一世の生活はとても大変で苦労が絶えなかったため、子供達(二世)には良い仕事についてもらいたいと強く願い、日本語学校や英語学校で、一生懸命勉強させていました。努力の結果、二世達の中には床屋、八百屋、仕立て屋、材木屋、魚屋、自動車屋などを開業した人もいました。
床屋


<プランテーションビレッジ>

ハワイ大学の近くに位置する「ハワイ日本文化センター」にも訪問しました。入口を入ってすぐに目についたのは、「おかげさまで(I am what I am because of you)」というタイトルのついた日系移民の歴史の展示でした。このセンターは、日系二世達が、厳しい状況の中でハワイに貢献した日系一世達に対して「感謝の気持ちを表したい」と建てられたものだそうです。

明治元年、150名前後の日本人が、一攫千金を夢見て、船で約2週間かけてハワイにやってきたそうです。その後、広島、山口、福岡、熊本、沖縄などから、20数回にわたって約20万人の日本人が労働者としてハワイに送られました。
サトウキビプランテーションでの労働者として移民してきた彼らの「義理」や「我慢」、「恥、誇り」といった日本的な価値観が、今日の日系移民の成功につながったとして、それらの言葉が石柱に刻まれていました。そこから、日系人の強い意志を感じました。

センター内には、一世達がハワイにやってきた頃から年月の流れに沿って、農場の様子や、家庭、学校、コミュニティーの様子などが実際に再現されていました。
当時の移民の生活はとても過酷であったというイメージが強かったのですが、プランテーションや住居を再現した展示を見て、白人の農場監督の下、低賃金での労働であったとはいえ、衣食住はきちんと備わっていたのだということを知ることが出来ました。

日米開戦と共に悪夢がやってきました。しかし、二世達による日系人部隊、第100大隊や第442連隊の活躍によって日系米国人は米国に忠誠を示し、戦後は日系人の地位をも向上させたのです。こうして苦境をバネにして飛躍していった日系人ですが、同時にこれらの日系人部隊は死傷率もとても高いものでした。

ここで私たちをナビゲートしてくださった吉武さんは、当時ミネソタで陸軍日本語学校の通訳をされていたのですが、20歳の時に第442連隊に入って8ヶ月間中国に行き、第14空軍の通訳をされていたそうです。吉武さんは、「中国は過ごしやすくて、戦争もなく、8ヶ月快適に過ごした。」と、笑顔で話されていましたが、その笑顔の奥にはきっとたくさんの苦労があったのだろうと思いました。今年、再び文化センターを訪問した時には、吉武さんはもう亡くなられていて、残念ながらお会いすることはできませんでした。私たちはここで学んだことや直接伺ったお話をしっかりと心に刻んで「楽園」を上演しようと改めて決意しました。

以上、「楽園」レポート第2弾は「ハワイでの日系人の暮らし」をお送りしました。

劇場でも、是非このレポートのことを思い出して、星司や富郎、日系人たちの様子や生活背景に注目してみてください!

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